最初にお断り。
文中に記載した歴史記録については、いつものようにウィキペディアを参考にさせていただいています。
貴重な知見の開示にはいつも感謝していますm(_ _)m
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さて、10あるトンネルの5つをくぐりめがね橋を渡った地点で、ようやく全工程のちょうど真ん中?
・・・ではなく、起点にあった案内板によると、めがね橋はアプトの道全長6.0km中の4.7km地点なので、ゴールはもうすぐそこです。
碓氷線最長の第6トンネルには、途中2箇所にアーチ型の横抗が開いています。
外から見るとこんな感じ。
排煙用のトンネル上部に空いている穴を上から覗こうと思いましたが、何か嫌なことが起きそうなので止めました^^;
第4橋梁。
第5橋梁。。
第6橋梁。。。
いづれもレンガで造られた貴重なアーチ橋ですが、第3橋梁を見たばかりなので不感症になっています^^;
いよいよ10個目のトンネルを出ると、アプトの道のゴール、旧熊ノ平駅跡です。
この場所で、しばらく別れていた旧線と新線がまた交わります。
ここは、単線時代の列車交換所で、山に挟まれた狭い区間で列車交換するための長さを稼ぐために、トンネルを掘って突込線と押下線を設けて、スイッチバックで運転していました。
・・・なーんてこと、峠のシェルパこと車掌さんがいなかったら絶対にわからなかったのだ。
左がここまで歩いてきた旧線、右が下りの押下線用のトンネルです。
視線を左に移動すると、左の複線のポータルが新線の上り線、右が新線の下り線。
配線図の遷移は、以前にリンクを張らしていただいたf54560zgさんのブログにとても詳しく記載されています。
興味があったら是非ご覧ください。(自分は帰宅してから見つけました)
⇒『熊ノ平配線図』(懐かしい駅の風景~線路配線図とともに~)
構内には熊ノ平殉難碑がありました。
1950年(昭和25年)に構内で土砂崩れが発生し、職員とその家族50名の方がこの地で亡くなったそうです。
また、1918年(大正7年)には、軽井沢に向かっていた列車が故障を起こして坂を登れず制動も利かずに逆行し、熊ノ平駅の引込み線で脱線・転覆して4名が殉職された事故が起きています。
まさに命がけで列車を運行していた難所だったんですね。
私のような者が「峠を行き交う列車の姿をもっと見たかったから、廃線にして欲しくなかった」などと軽々しく言うのは憚れますが、今しも列車がやって来そうなこの光景を見ていると、、、
また横軽間の運転が復活しないかなあ・・と切に願ってしまいます。
アプトの道はここでおしまい。
この先の旧線跡は、ほとんど新線に改修されて使われて、その新線も廃線となった今ではひっそりと佇んでいるとのことです。
遊歩道が軽井沢まで延びれば、さらに楽しい散策になるのにと思う一方で、横軽を復活させる時のためになるべく手付かずのまま残しておいた方がいいと思ってみたり・・・
さあ、ここからどうするか?
この時期横軽間を運行するバスは運休中なので、、、
旧R18を歩いて軽井沢に向かうか、今来た道を歩いて戻るかです。
何処に行くにも一筆書き派なので、いつもなら軽井沢まで歩いて新幹線で帰ることを考えたでしょうが、ここは碓氷峠ですから同行者2名との協調運転を重視して、横川までおとなしく歩いて帰ることにしました。
・・・・・なーんちゃって
実は往路の出だしでいきなり左足をくじくヘマをやらかして、足が痛かったからだったりして(笑)
しかし、横川まで戻ったお陰で、碓氷峠鉄道文化むらを2年ぶりに再訪することができました。
前回見落としたED42の1号機。
これが第三軌条から集電するための集電シュー。
(これもシェルパがいなければ見過ごしていたでしょう)
EF63 10とも再会。
前回訪れた時の写真と同じ構図だったか(;^_^A
園内の現物大模型を一回り眺めていると、、、
日も落ちてきました。
往路と同じ107系に乗って高崎に戻ります。
高崎駅前のイルミネーション。
高崎の居酒屋で反省会を開いてから、湘南色に未練を残しつつ、
上野東京ラインで帰宅しました。
上野東京ラインが開通してからというもの、「東京から座れなくなった」とか「乗り入れ路線の事故に引きずられて東海道線がいつも遅延している」とか文句ばっかり言ってましたが、いざ自分が高崎線を利用する状況になると、いやこれは便利です(笑)
反省会で、次回は春先の清水行きを計画しましたが、こちらもガイドの方よろしくお願いします>車掌さん(笑)
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PS. 車掌さんより、ご自身のブログへのリンク張りを承認いただきました。
こちらにも、既にこの日の記事がアップされているので、是非ステレオ放送でお楽しみください(^o^)/