旧東海道の金沢横町(保土ヶ谷)から六浦(金沢八景)へと通ずる金沢道を辿る散策も、早や最終回です。
この日のスタート地点である栗木には、京急の杉田駅から杉田新道を歩いて向かいます。
笹下釜利谷道路と環3が交わる栗木交差点。
この先で、金沢道は笹下釜利谷道路から左へ分岐するのですが、前回辿った道は誤りで、交差点のすぐ先で分岐する急勾配のこの道が金沢道でした。
今回歩いている道筋で、初めて古道然とした佇まいに遭遇できました。
危なく、一番大事?な所を辿らずに済ましてしまうところ。
坂を登って行くと庚申塔群あり。
右へ進むと金沢道、左へ進むと杉田に通じるそうです。
しかし、こんないい雰囲気の道は、、、
すぐに終わって、坂を下りると、しばらくは左手に広がる丘陵地の麓に沿って進みます。
上中里近く、事前にネットで調べてチェックポイントとしていた「いっぺい水」と思われる湧き水を発見。
左手に続く丘陵の崖上には所々住宅・マンションが見え隠れして、決して自然を留めた丘陵が広がっているわけでもなさそうですが、この水はヒンヤリと冷たく、湧き出た地下水であることは明らかです。
この水の流れで作った小さな溜まりで金魚が飼われています。
ここからすぐ。
あれま、またも湧き水が。。。
「いっぺい水」とは、この道を歩く人々の喉を潤してきた湧き水の名称で、流量が多かったため「いっぺい」(=いっぱい)と呼ばれたそうです。
1箇所を指すのではなく、この付近の湧き水の総称だったのか?
大きく右に進路をとる笹下釜利谷道路から離れて、旧道はまっすぐと坂を登って行きます。
右手に岩船地蔵。
そして現れたビューポイント。
能見台が一望のもとに見渡せます。
例の巨大漏斗も右手に見えます。
右手に見える氷取沢高校に向かって階段を下りて行きます。
ここから先は、宅地開発で旧道の面影は全くありません。
以前、能見台駅から氷取沢市民の森へと向かった道と交差し、能見台の住宅街を突っ切って南へと進んでいくと、やがて進行方向に能見堂緑地が現れます。
緑地へと入っていけば、以前歩いた六国峠ハイキングコースに行き当たるので、前回同様に金沢文庫に向かいます。
これが金沢道の一部だったとは、当時もちろん知りませんでした。
能見堂跡を通って、
久しぶりの軽いハイキングを楽しんで、
コースの出口。
住宅街を抜けて、京急の踏み切りを渡り、R16に出ます。
前回は金沢文庫から京急で帰宅しましたが、今回は金沢八景までの道のりとなります。
金沢文庫駅前の交差点から、旧道は左へ分岐。
すぐ先で新道に合流。
君ヶ崎交差点で、新R16と旧R16が分岐しますが、古道の道筋は真左に折れる第3のルートです。
特に見所もなく旧R16に合流。
旧R16は、沿道に神社仏閣や鰻屋が目立ち、古い街道の香りがちょっとだけします。
旧R16は州崎で海に突き当たる。
突き当たった先は平潟湾。
釣り船屋の桟橋の袂で写真を撮っていると、釣り船屋のご主人に声をかけられました。
左手の野島を指さして、
「あそこに登ると四方が見えるよ」
「昔はあそこに住んでたけど、立ち退きで皆こっちに来たんだ」
野島は来週歩いてみるからさ。
洲崎を右折し、宮川に架かる瀬戸橋を渡る。
新R16と合流すると、すぐ先右側に瀬戸神社。
R16を挟んで反対側には琵琶島。
今では、金沢シーサイドラインの駅など出来ていますが、、、
かつては風光明媚な景色が広がっていたことでしょう。
駅前は再開発中で殺風景。
まもなく取り壊されるという喫茶店で遅いランチをいただきました。
レトロな外観で中はガラッとしているかと思いきや、14時を大きく回っているのに、ほぼ満席でした。
ここに来ると3線軌条萌え~となります^^;
金沢道の散策はこれにて終了。
でも、ここにはもう一度来る予定です。
※2015.07.01 追記※
能見堂跡を素通りしましたが、ここからの景観に触れなかったことをちょっと後悔。
軽く追記してみます。
能見堂は、寛文年間(1661~73)に、当時の領主久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)が、芝増上寺の子院を移設し、地蔵菩薩を本尊として再興した擲筆山(てきひつざん)地蔵院のこと、だそうです。
↑横浜金沢観光協会のサイトより
以前は、その名の通り「能く見える」地で景観を誇り、広重もここから見た夜景を美しい版画に残しています。
『武陽金沢八景夜景』
正面の野島、野島と砂州で繋がる手前の洲崎、そして洲崎と右手の六浦を結ぶ瀬戸橋が綺麗に描かれています。
白砂青松、日本の原風景ですね。
この浮世絵を念頭において実写した、ベアトの写真も残されています。
ベアトは、この写真の解説シートで、金沢へピクニックで訪れたこと、横浜から馬で2時間ほどかかったこと、金沢は鎌倉や江ノ島へ行く途中の休憩所として便利なことを記しています。
その後、幕末に入海の埋め立てが進んで美しい景観が損なわれ、さらには明治末期には夏島や烏帽子島を削って飛行場が作られ、この一帯は要塞地帯に指定されて写真やスケッチが禁止。
戦後は宅地開発によって海が埋められて、かつての景観はすっかり失われ、日本有数の行楽地は姿を消してしまいました。
↑『神奈川の東海道』(神奈川東海道ルネッサンス推進協議会)より
あれっ?!
能見堂の話を付け加えようと思ったら、いつの間にか八景の話になってしまった・・・
八景は、今週末に訪れるつもりなので、今回はこの辺りで。