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【狂犬通信 Vol.146】 越中國砺波郡一乗寺城

一乗寺城は富山県と石川県の県境、R359の北側の尾根上にある城です。
天正12年、織田信雄徳川家康連合と豊臣秀吉が戦った小牧長久手合戦ですが、北陸でも加賀・能登前田利家は豊臣方、越中佐々成政は織田・徳川方に別れて激しく交戦しました。
その北陸における小牧長久手の戦闘は、この一乗寺城を出撃した佐々勢が、数キロ先の加賀・朝日山城を攻撃したのが最初と成りました。
やがて、織田信雄豊臣秀吉が和睦すると名目を失った徳川家康も兵を引きますが、北陸では戦火は収まらず、天正13年に佐々成政の全面降伏まで続きます。
私は最近まで勘違いしてたのですが、捕虜同然に大阪在住を命じられた佐々成政は全ての領地を失った訳ではなく、越中國新川郡(15万石位かな?)は前田氏の監視付とは言え領地として残され、大阪在住の賄い地として、上方に1万石が新たに与えられたんですね。
織田信雄豊臣秀吉の対立が解消されたのに、なぜ佐々成政が和睦しなかったのかは解りません。
成政と利家は二人とも尾張衆で、成政は馬廻衆から選抜して組織された黒母衣衆、利家は小姓衆から選抜された赤母衣衆であり、共に織田信長のお気に入りでした。
軍歴も二人とも柴田勝家配下で、府中3人衆(もう一人は不破光治)と呼ばれた同輩で、特に仲が悪かったとは伝わっていません。
成政が兵を引かなかった理由をあえて挙げると、佐々成政柴田勝家の甥でお気に入りの鬼玄蕃こと佐久間盛政の弟を婿養子としていて、柴田勝家と関係が近かったと思われる事位でしょうか…。
城は舗装林道が城の前を通っていて、簡単にたどり着けます。
良く整備されてるとは言えませんが、杉林の中なので下草は殆ど無く、快適に見てまわれます。
技術的に優れている事で知れている松根城(近くにある)程では無いものの、この城も天正末期の織豊系城郭の虎口を見ることが出来ます。