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【狂犬通信 Vol.150】 越中國婦負郡大道城

富山県西部は飛弾山地が大きく平野部に張りだし、富山平野と砺波平野に分断しています。大道城はこの山地の中央部分、山田谷集落の南東の尾根上にある城です。
越中の城塞の中でも訪問難易度はずば抜けて高い城で、今回、越中まで来た最大の目的の城です。
平野部から車で1時間近く走りようやく山田谷集落にたどり着きます。(関東の平野部の住人には、こんな所に人が住んでいるのか?ってレベルの険しい山中です)
集落から更に舗装林道で山地の尾根上に上がり、そこから未舗装林道を1時間徒歩でようやく城にたどり着きます。
そんな秘境の城ですが、地元ボランティアさん達の尽力で城内は綺麗に整備されています。(辿り着く迄の困難さから、城内は荒れ放題だと思ってました)
この城の詳細はよく解っていない様ですが、記録では天正9年に神保氏重臣の小嶋胤興、寺嶋職定が謀叛を企て山田川下流の富崎城に籠りますが、佐々成政により落城。
両将は上流の大道城に逃れたとあります。
この城は尾根上に郭を4っ並べた構造で、防御の力点を南側に置いています。
集落の山田谷は城から見ると、北西側なので尾根上の街道を飛騨方面から来る敵に備えている形です。
そこで、この城は何に備えて築城しれたのか?という疑問が生じます。
城の規模も山間の小領主の城としては大きすぎ(守兵は最低でも100人は必要な規模です)です。
そう考えると、街道を断固遮断する目的で神保氏、上杉氏、一向一揆といった大勢力が築城したと思うわけですが、素人の浅知恵では答えが出せる訳でもなく、研究者の方々の見解が示されるのを待つしかないですね。(≧∇≦)