小机城の特長は何と言っても、東西二つの主要な曲輪を取り巻く、城の規模に不釣り合いな位に巨大な空堀でしょう。
曲輪を取り巻く様に掘られた堀は横堀と呼ばれ、戦国後期の城の特長の一つです。
小机城のもう一つの特長の一つに、横堀の外側、丘陵の斜面に対してびっしりと腰曲輪を設けている点です。
丘陵の斜面の勾配が登れる程度のもののため、登れない様に切岸(人工急斜面)を設けた副産物なのですが、堀や土塁を使わず、斜面に低い切岸を多数設ける(結果的に斜面に多数の腰曲輪が出来る)のは、戦国時代前期の特長です。
城は戦術の変化と共に構造が変化するため、使用期間の長い城では、戦国前期と後期の両方の特長を併せ持つのは珍しく無いのですが、小机城の場合は時代と共に徐々に改修されたと言うより、戦国末期に一気に改修された印象です。
武蔵南部は直接敵と対峙していないため、軍事的緊張度が低いため、旧態然とした城でも問題無かったのが、急に軍事的緊張度が高まったため、急遽改修されたと思われます。
現在の姿に改修された時期については不明ですが、永録4年の上杉謙信の来襲時か、永録13年の武田氏との抗争開始のどちらかでしょう。(大量の鉄砲を使用する前提の縄張なので、北条氏が鉄砲を主力兵器とした時期の後に改修されたはずです。永録4年の謙信来襲時に、北条幻庵が500丁の鉄砲で上杉勢を迎え撃つ様に配下に命じた記録が残っている様です)
天正18年の豊太閤の小田原征伐の時は城は放棄された様ですが、武蔵南部の武士で構成される戦闘部隊の小机衆(小机衆は他の北条氏当主の直轄部隊と比べて、人数、役高共に大きく変わらない)の拠点城郭とは言え、規模の小さい小机城は豊太閤の大軍を迎え撃つには不適格と判断されたのでしょうな。
※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)