ほぼほぼ野外活動記

週末の超スローライフを綴ります ポタリング、釣り、キャンプ、ハイキング、散策、外飯、庭呑み・・・

【狂犬通信 Vol.62】分倍河原古戦場

現在、BSプレミアムで「太平記」を再放送しています。
前回の放送で、新田義貞が挙兵して、分倍河原の合戦が描かれると楽しみにしていましたが、残念ながらスルーされてしまいました。

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分倍河原古戦場碑は、分倍河原駅の南側約1km程度の所にあります。
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府打倒を目指して挙兵した新田義貞は、鎌倉幕府の最有力御家人である足利尊氏の嫡男を保護したことにより多くの兵を集め、鎌倉に迫ります。
これに対し幕府は、得宗北条高時の弟の北条泰家を大将とする主力軍を送り対抗します。
幕府勢は鎌倉街道多摩川を渡る分倍河原で新田勢を迎え撃ちました。
当初優勢であった幕府勢でしたが、油断から新田義貞に側面を突かれ、総崩れと成りました。
結果的には、この敗北が鎌倉幕府の命運を決める結果となりました。
実は分倍河原合戦は有名な戦いがもう1つあります。
享徳4年(1455年)、鎌倉公方足利成氏は関東管令・上杉憲実(名前違うかも)を謀殺。
これに対し、上杉一門は武力で対抗し、ついに分倍河原で成氏支持の諸将と分倍河原で激突します。
合戦は上杉方の惨敗で、上杉一門の多くが討たれました。
上杉氏は顛末を室町の幕府に報告。
時の将軍、足利義政は今川氏らに上杉の支援を命じ、これらの支援を受けた上杉方は勢力を盛り返し、泥沼化した享徳の乱は、上方で発生した応仁の乱の影響を受けて、延々と続く事になります。

石碑は、鎌倉幕府滅亡に繋がった新田義貞分倍河原合戦に因んだものです。(こっちの方が影響が大きいですから、当然ですが…。)
分倍河原がこのように何度も大戦の舞台に成ったのは、中世の主街道である鎌倉街道多摩川を渡る渡し場であったためです。
ここで待っていれば、高い確率で相手が通るため、待ち伏せに絶好な場所です。

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※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)