泥除けが装着されたALPSに乗って、山音製輪所を後にします。
門沢橋で相模川を左岸に渡ります。
橋を渡ると南下します。
目の片隅に入った相模線の駅本屋に惹かれて急停車。
なるほど、大正15年開業時のままとは・・・貴重な建造物である。
さらに相模川の左岸を南下してやって来たのは、ここ寒川町一之宮の八角広場
何故「八角」の名が付いたかはわからないが、その名の通り八角形の噴水池らしきものがあります。
こんな案内板が立っています。
広場の南端。
ここから先には、戦時中に相模海軍工廠がありました。
1943年(昭和18年)から、イペリット(マスタードガス)が生産されていたそうです。
当時、学徒勤労動員で兵器製造にあたった方の談話が「有鄰(第393号)」に残っています。
つくっていた一番主なものはイペリット爆弾という化学兵器です。正式には「六番一号陸用爆弾」と言われた、びらん性毒ガス十七キロを装填した六十キロの爆弾です。
イペリットは、工廠内では「特薬」と呼ばれていましたが、異臭の強い、茶褐色の粘性のある液体で、爆発すると液体が気体になり、それを鼻から吸い込むと、肺や食道などがただれ、皮膚につくと皮膚がただれる。そういう化学兵器だった。
仕事は、イペリットが入った重い缶を火薬と一緒に爆弾の管体へ納めて、そこへパラフィンを注入して固定してからビス止めをするんです。そして弾頭と尾翼にガス弾であることを示す黄色と緑の塗料を塗って、これを箱詰めにして発送する。
この方は、昭和19年に16歳で動員されたとのことなので、昭和3年生まれ。
うちの親父の2歳年上です。
2002年には、当時建設中だった「さがみ縦貫道路」(圏央道)の工事現場から、毒ガスの入った瓶が発見され、作業員が病院に搬送される事件がありました。
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000733707.pdf
戦後、国家による兵器の不当投棄が国内外で行われたとのこと。
これも、戦争の負の遺産の一つです。
さて
この八角公園、ここにはかつて相模線の支線「寒川支線(通称:西寒川支線)」の駅がありました。
今回訪問の目的は、廃線跡の探索です。
(続く)