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【狂犬通信 Vol.39】相模國大住郡・善波氏館

R246(旧矢倉沢往還)の伊勢原市秦野市の境が善波峠(今はトンネルに成ってます)ですが、この峠の伊勢原側が善波集落です。
R246の北側に少し入ったところに三嶋神社があり、この神社に善波氏館跡の碑が建ちます。
善波氏は調べても詳細がよくわかりません。
平安期~室町期の在地領主で、戦国期初期迄は領主であった様です。
碑の横に善波氏に関して残る記録記録の一覧を記した解説板が設置されていましたが、写真がぶれて読めません…。
現地で読んで気になったのが、応永年間に善波憲氏が鎌倉公方足利持氏が起こした武田信長討伐の軍勢に参加したと言うものです。
これは、犬掛上杉禅秀が起こした持氏追い落としのクーデターに信長の父である甲斐国守護職・武田信滿が荷担(信滿は禅秀の娘婿)したため、足利持氏に討伐され自刃。
信長は父の死後も持氏に抵抗を続けたため討伐軍を送られた時のものでしょう。
足利持氏はその後、自らが将軍に成る事を画策して、これを諌めた関東管令・山内上杉憲実と対立し、幕府軍に攻められ自刃。
更に、持氏の近臣が持氏の遺児を奉じて挙兵したり、持氏の遺児の足利成氏鎌倉公方に成るも、父の遺恨から山内上杉憲実の息子を謀殺して、山内上杉氏、扇谷上杉氏と全面衝突に発展する等、豊太閤の小田原征伐まで、関東は争乱状態と成ります。
この中で、武田信長は足利成氏に従い、上杉氏が守護職を勤める上総に侵入し、上総を支配下に納め、上総武田氏の初代に成ります。
武田信長の面白いところは、上杉禅秀の以降、多くの合戦に参加し、甲斐や関東各地を戦鬼の如く暴れまわったにも関わらず、最後は自らの居城である真里谷城(木更津市)で天寿を全うして死んだ点です。
兄の武田信重甲斐国守護に成るも、家来に後ろから斬られて死んでる事を考えても、かなり幸運な人物と言え、私的には気になる人物の筆頭です。(因みに好きな武将は誰?と聞かれて、武田信長の名前を出すと、高確率で可哀想な人を見る眼差しで見られます。武田信玄織田信長が区別出来ない可哀想な人と思われてしまう様です…orz)
そんな人物の名前が思わぬ場所で出て来て、不思議な感じです。
もうひとつ気になるのが、善波憲氏と言う名前です。
善波氏の初代とされる人物は善波重氏と言う人物(幡曼陀羅なる妖怪を弓で打ち緒としたと伝説が残っている様です。)なので、憲氏の氏の字は善波氏の通字(一族で代々名前に受け継がれる文字)である事が解ります。
で憲の字…。
気付いたと思いますが、憲は山内上杉氏、犬掛上杉氏の通字で、時の関東管令が、山内上杉憲実であるので、小領主である善波氏が名前に使えないのではないかと思われます。
仮に善波氏が山内上杉氏の近臣で憲実の名前から一字を貰った場合、実氏となるはずなので、なんで憲氏なのか不思議です。
上杉氏から善波氏へ養子を迎えた場合、憲氏でもおかしくないのですが、足利将軍家外戚で、関東管令職を世襲した上杉氏から小領主の善波氏に養子が入るなんて考えられないし…。
謎です。
小田原衆所領役帳を見たところ、善波は西郷右京亮が45貫文(貫文は銀の単位。1貫文は米2石相当)と成っており、戦国後期には善波氏は滅亡していた様です。

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※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)