Now or Never

今でしょ!

【狂犬通信 Vol.71】駿河國益津郡・田中城

田中城は藤枝市街の西の外れに築かれていた城です。
明治迄使用されていましたが、土の城の宿命か高度経済成長期に破壊され、市街地の所々に堀と土塁の一部を残すのみです。
この城が有名なのは、本丸を中心に同心円状の縄張りを持つことです。
城は破壊されてしまいましたが、現在も堀沿いの道路が同心円状に成っているため、地図で城の旧状が解ります。
この兵法書を参考に実験的に作られたかの様な縄張りは、武田氏の駿河侵攻後、馬場民部少輔信春の設計とされているので、実戦を考慮していると思われますが、他に類を見ない縄張りです。
また、この城は徳川家康が倒れた城としても有名です。
鷹狩りでこの城に宿泊した徳川家康は、夕食に食べた鯛の天ぷらにあたり、そのまま回復する事もなく、他界したと伝わっています。

f:id:toei-sportif:20200905210503j:plain

f:id:toei-sportif:20200905210624j:plain

f:id:toei-sportif:20200905210646j:plain

※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)

【狂犬通信 Vol.70】遠江國榛原郡・諏訪原城(続)

諏訪原城に来るのは、3~4回目位ですが、来る度に度に整備が進んでいます。
最初に来たときは、駐車場もなく(諏訪神社の駐車場はあった)、辺り一面が茶畑だったのを思い出します。
今回は駐車場の所に案内施設が新設され、発掘成果等の簡単な展示が行われていました。
気になったのが、発掘された多数の銃弾で、未使用と思われる球形のものだけでなく、固い物に着弾したと思われる完全に潰れた銃弾も多数ありました。
解説では徳川方の銃弾との事なので、徳川勢が諏訪原城を奪取した時のものでしょうか。
何れにしても、この城で戦闘が行われた事は確実な物的な証拠です。
今回は主郭下にある空堀を見ようと思っていましたが、主郭下に降りると、空堀は藪に覆われていて断念…。
それならばと主郭~ニノ郭の空堀の堀底を進んで反対側からアプローチを試みましたが、先週迄の長雨で堀底は湧水が流れている状態で、途中で堀底を転げ落ちるのが確実と思われたので断念…。
まあ、この城は私的にはベスト5に入る位のお気に入りなので、またそのうち来たいと思います。

f:id:toei-sportif:20200904231018j:plain

f:id:toei-sportif:20200904231027j:plain

f:id:toei-sportif:20200904231037j:plain

※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)

【狂犬通信 Vol.69】遠江國榛原郡・諏訪原城

続日本100城の1つ諏訪原城です。
この城は遠江駿河の境を流れる大井川の西岸、金谷市街の西側の牧之原台地の縁に築かれています。
天正元年、武田勝頼遠江侵攻の橋頭保として、この城を築城します。
しかし、天正3年に長篠合戦で大敗すると、徳川勢に奪取されてしまいます。
この城は東海道が大井川を渡る地点に築かれているため、これ以降、武田勢は遠江の味方に対する補給や連絡に支障をきたす様に成り、武田勝頼遠江中部の高天神城固執したため、武田氏滅亡の遠因に成った城でもあります。
また、徳川勢は武田勢が伊豆方面で北条勢との合戦のために守りが手薄に成ると、この城から駿河方面に侵攻して駿河領を荒らし回りました。

この方面に於いては、最重要な城だと思うのですが、武田方は、この城の奪還を行ったとする話は聞きません。
不思議ですな。

f:id:toei-sportif:20200903223653j:plain

f:id:toei-sportif:20200903223707j:plain

f:id:toei-sportif:20200903223717j:plain

※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)

【狂犬通信 Vol.68】井出の沢古戦場

本町田の外れ、鎌倉街道と鶴川街道の交差点付近が井出の沢古戦場です。
井出の沢合戦は、健武2年、北条高時の遺児の北条行時が鎌倉幕府再興を目指して挙兵した中先代の乱(中先代は、北条行時の事)において、鎌倉を目指して鎌倉街道を南下する北条行時の軍勢を鎌倉にいた足利尊氏の直義が迎え撃った合戦です。
この戦いで足利勢は大敗し、直義は鎌倉にいた尊氏の嫡男らを連れて鎌倉を脱出します。
在京していた尊氏は後醍醐帝から都を離れる事を禁止されていましたが、制止を振り切って関東に下り、鎌倉を奪還する事に成功しました。
後醍醐帝は尊氏の行動を謀叛と見なし、新田義貞を大将とする討伐軍を送り、後醍醐帝と足利尊氏の対立は決定的と成りました。

この場所は関戸古戦場から6km程度しか離れていない場所にあります。
しかも、分倍河原合戦から2年しか経っていません。
鎌倉街道(上道)が大戦の度に戦場と成った事が解ります。
ところで、現在の鎌倉街道は井出の沢がある菅原神社の前で進路を南西に変えてR16の渋滞の名所である鵜野森の交差点で途切れます。
鎌倉街道(上道)は、鎌倉から瀬谷の辺りまで続いているのは解りますが、鵜野森~瀬谷間は何処に行っちゃったんでしょうか?
どうでも良い事ですが、気になります…。

f:id:toei-sportif:20200902205727j:plain

f:id:toei-sportif:20200902205741j:plain

※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)

【狂犬通信 Vol.67】武蔵國橘樹郡・大丸城

大丸城は南武線南多摩駅の直ぐ南側の位置にありました。
解説板にある写真を見ると、丘陵の頂きに築かれた単郭の城で、昭和の終わりまで良好な状態で残存していた様です。
しかし、多摩ニュータウンの建設に伴い城の築かれていた丘陵ごと完全に削り取られてしまいました。(城跡の解説板の辺りは真っ平らです)
この城に関する記録は存在せず、由来が謎の城です。
ただ、城の北側は是政の渡し場で、多摩川を渡る交通の要衝であるため、これを監視するための城と考えられています。
開発に伴う発掘調査ては、縄文期~中世にかけての様々な遺物が発見され、この場所は大丸遺跡と呼ばれているそうです。

この城は破壊せずに残して欲しかったですな。
とても残念な城です。

f:id:toei-sportif:20200901210820j:plain

f:id:toei-sportif:20200901210835j:plain

f:id:toei-sportif:20200901210855j:plain

※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)