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【狂犬通信 Vol.152】 越中國新川郡生地台場

生地台場は富山湾の最東端、生地鼻に加賀藩が黒船来航に伴う海岸防衛強化のために嘉永年間に築城しました。
越中国内には他に越中國西部の氷見~高岡の辺りに3ヶ所築かれています。
いずれも近くに湊があり、港湾防衛を主眼にしていたと思われます。
しかし、越中國でも有数の湊である富山湊のある辺りには台場は築かれていません。
富山湾の最深部だからか?と考えましたが、この頃の砲の射程は1~2km程度なので、広い富山湾の両側入口に砲台を置いても守れないのは明白です。
良く考えてみたら理由は明白で、これらの台場は加賀藩のもので、神通川河口付近は加賀藩の分家である富山藩の領地であったからですね。(≧∇≦)
その富山藩は準国持の高い家格でしたが、10万石の中程度の大名で、恐らく財政の問題で台場の造営は行わなかった様です。
台場は弓状の長さ70m程度の土塁に5箇所の砲座を設けています。
この手の造りの台場(青森の平舘台場、福井の丸岡藩台場等)としては、私の見たなかでは最大です。
日本の台場の築城は基本的に2つの次期に分けられます。
文化露寇に伴う19世紀初めと、黒船来航に伴う19世紀中頃ですが、最初の時期の物は、海岸沿いの高台を平らに成らして、そこに直接砲を設置していた様です。
後の時期のものは、この台場の様に弾除け土塁の間に砲座を設けるタイプと、蘭学から導入された品川台場の様な保塁状のタイプに進化しています。
台場遺構を見ると、平和な江戸期に停滞していた日本の軍事技術が急速に進化していった事が解ります。
面白いのは、加賀藩がこれらの台場を維持運営するために一番苦労したのが、配備する人員を集める事でした。
日本最大の藩、つまり幕府に次ぐ軍事力を持つ筈の加賀藩が、自領防衛の兵員の確保に苦労するとは、幕末の侍衆が戦士ではなく官吏と成ってしまった1つの証明という事でしょう。