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【狂犬通信 Vol.49】角○伍長の碑

相模原の礒部城を見に行ったのですか、礒部集落の中で日露戦争で戦没した兵士の碑を見つけました。
碑の前面の文字は光線の加減もあり読めなかったのですが、碑の側面に書かれた明治38年4月3日付の鴨緑江軍司令官川村大将の感状は概ね読めました。
それに依ると、第11師団の機関銃砲兵分隊長の角○伍長は、五百牛録北側台地の戦闘において、歩兵隊と共に露軍陣地を奪取後、逆襲して来た露軍大部隊に対し射撃を行い、多数の敵兵を倒すも頭部に被弾。
しかし、なおも射撃を続行し、敵兵が陣地に突入するに及んで倒れた。
翌日、遺体で収用された。
その行為は軍人の鑑である。
要約すると上記の様な内容です。
調べてみると、この戦闘は日露戦争の最後の大規模地上戦闘である奉天会戦で、奉天の東側の五百牛録堡塁を攻撃した第11師団所属の歩兵第22連隊(松山)の2月28日の戦闘と推測されます。
角○伍長の使用していた機関銃は。当時日本軍が正式採用した仏国ホッチキス社の機関銃のライセンス生産したものでしょう。
相模原出身の角○伍長は本来は第1師団のはずですが、四国出身者で構成される第11師団に所属していた経緯は不明ですが、新兵器の機関銃の訓練を受けていた角○伍長が指導のために第11師団に転属させられたと推測されます。
碑の裏に碑を建てた人の名が二人刻まれてましたが、一人は角○伍長と同じ名字。
戦死した家族が戦死した経緯を廻りの人に知って欲しくて、感状の文面をそのまま碑に刻んだんでしょうな…。
遺跡の状態の良くない礒部城より、たまたま見つけたこの碑の方が、興味深かったです。

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※内容に誤りがある事があります。(by 綾瀬の狂犬氏)