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【狂犬通信 Vol.79】犬目の平助墓

犬目の平助は、江戸後期に甲斐で発生した大規模一揆の二人の指導者の一人です。
因みに犬目は甲州街道の宿場町の事で、平助の目が犬に似ている訳ではありません。(そう思ったのは私だけか…。)
犬目の平助については、以前調べたのですが、既に記憶の彼方へ…。
残った記憶によれば、江戸後期、甲斐國では年貢の取立てに不正が横行していました。
平助ともう一人(名前は忘れた)は、不正を正すべく一揆を起こします。
一揆と言っても、今で言うデモとストライキに寄るもので、死傷者を出さない様に配慮したものでした。
しかし、平助達の一揆に便乗して、博徒や無宿人と言った悪党連中が金貸しや商家を襲撃し、一揆は暴力的なものに変貌してしまいました。
幕府は鎮圧に乗り出しますが、少数の幕府の役人達(当時の甲斐は、天領および旗本領)では鎮圧出来ない程の激しい一揆のため、周辺の諸大名に鎮圧の為に出陣を準備する命令を出す程でした。
しかし、この周辺の諸大名の軍勢が出陣準備を始めた事が甲斐に伝わると、一揆は収束に向かいました。(一般的に一揆の鎮圧は殺傷力の高い武器は用いないのが普通でしたが、動員された諸大名の軍勢は恐らく完全装備で来る事が予想されたためと思われます。)

一揆は収まりましたが、幕府としては体面を保つためにも関係者の処分は必須でした。(実際に暴れた悪党衆は徹底的に弾圧された様です。)
一揆を主導した二人のうち、平助は逃亡の道を選び、もう一人は出頭する道を選びました。
結果は…。
出頭した方は磔、平助はほとぼりが冷めるまで逃亡を続け、後に犬目宿に戻り、余生を全うしたそうです。(なので犬目に墓がある)

この話を知ると、色々と考えさせられますな…。

ほとぼりが冷めると江戸期の役人は追及しなくなるのは意外でした。
今の警察は、時効か被疑者死亡が確認されるまで、絶対に諦めないで犯人を追い続けるのとは対象的ですな。

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